『水滸伝』 第1話 『生辰綱事件』其壱
「あ〜もう、姉さん、待ってくださいってば〜!」
姉の目からみても、かなり鈍くさい部類に入る小さな弟が、転げるように走ってくる。
それを両手で抱きとめて、宋江はにっこり笑った。
「宋清ったら、そんなに急がなくても、市は逃げないわよ!」
「姉さんが急ぐから、僕が追いかけてるんでしょうが!逆です、逆!!」
ぜえ、はあと、宋清が肩で息をつく。
済州、運城県。
穏やかなこの町で、宋江は胥吏(いわゆる下級役人)をやっている。
2年前、父が亡くなった時、母はもう他界しており、弟がまだ幼いということもあって、彼女がその親の務めを引き継いで
働くことになったのだ。
まだ年若い宋江が役人の仕事をするには、かなりの苦労が伴なう…はずだったのだが。
「今日は、久々に晁蓋さんに会える日だもんね!浮かれもするわよ!」
父の代からの付き合いである富豪の男の名前を、宋江が嬉しそうに口にする。
晁蓋。運城県郊外の東渓村に住む男である。
早くに父を亡くした宋姉弟を不憫に思い、時には兄のように、時には父のように支えてきてくれた好漢。
彼の庇護と協力なくしては、宋姉弟はこんにちまでまともな生活をしていくことができなかっただろう。
今日こと月に一度の大市の日は、姉弟が彼に会える日でもあった。それがこの浮かれようにつながるわけである。
「やあ、宋江ちゃん。どうだい、美味しい桃が入ったんだけど?」
「本当!?やったあ、じゃあ、晁蓋さんが来たら、おごってもらっちゃうね!」
「宋江ちゃん、宋清ちゃんも元気かい?」
「あっ、楊のおばちゃん!元気だよ〜!」
「宋江ちゃん、ほらほらこっち、イキのいい鶏が入ったんだけどさ〜!」
次々に市の商人や町人に声をかけられ、笑顔で応える姉の姿を見て、宋清は複雑な思いで溜め息をついた。
姉の宋江には、役人を勤められるような頭脳はない。
要領も悪ければ、人目を引くような特技も持っていない。
武芸だって、はっきり言って微妙なところだし、見目が特別よいというわけでもない。
しかし、何故だか人望――人に好かれる能力だけは、一丁前なのだ。
まだ少女の面影を残す宋江が胥吏をやっていられるのも、ひとえに周りの人間の協力があってこそなのである。
町人たちが、快く宋江の仕事の助けをしてくれるから。
他の役人仲間たちが、宋江を可愛がって、助けてくれるから。
周囲の人間の力を最大限に使って、今日もこの姉はのほほんと生きている。
そんな彼女を、弟は内心不思議な存在だと思っていた。
そりゃあ、自分だって、なんだかんだで姉のことは大好きだ。
もう、たった一人の身内であるのだし、姉も自分のことを大好きでいてくれている。
でも、血のつながりもなくても、有能でなくても、むしろ足手まといになるかもしれないような彼女を、
皆がこんなにも愛してくれているのだ。
いつも一緒にいる弟の目から見れば、ただのごく普通の女性でしかないのに。
まるで、渇望するその時に、丁度降ってきた恵みの雨のように。
いつしか彼女は、『及時雨』と呼ばれていた。
どんなに心が乾いたときでも、彼女の無邪気な笑顔を見られれば潤される、と。
そんな風に、町の人々が噂しているのを聞くと、いつもはらはらさせられている弟としては、
嬉しさよりもやるせなさで胸がいっぱいになってしまうのだが。
なんといってもこの姉は、見かけによらず、破天荒この上ない厄介な人なのだから。
「あっ!!!晁蓋さん発見!!」
「えっ、ちょ、姉さ…ぐえっ!」
弟の襟首をつまみ上げて、勢いよく数十メートル向こうの目的の人物に突進を開始する宋江。
何故彼女は、首が絞まって苦しんでいる弟の状態を察してやれないのだろうか。
多分、いや、確実に、前しか見えていないからなのだろう。
「ちょっうがいさ〜〜んっ!!」
「やあ、宋江。それに、宋清も!」
髪を後ろに撫で付けた、中肉中背の若い男が振り返る。
目つきが少々鋭いため、一見声をかけてよいものか迷いそうな外見だが…。
にっこりと笑ってみせたその顔からは、その印象を払拭するような、暖かな内面が読み取れる。
「晁蓋さん、久しぶり〜!」
「はは、相変わらずだな、宋江。早く手を離してやりなさい、早く」
「へ?何で手……って、清!?何やってるの!?」
何やってるじゃ済まないだろう。
幾ら姉弟だといっても、そりゃあ殺気の一つや二つ、出したくもなる。
実の姉弟とはいっても、この年中お天気な姉の頭の中は、宋清には幾つになっても理解できそうになかった。
げほげほと咳き込みながら、恨みのこもった目で宋江を睨みつける宋清。
その頭を、晁蓋がなだめるように優しく撫でてくれる。
「全く、宋江は本当に周りが見えないな…。宋清。ほら、深呼吸だ、深呼吸」
「…はい……すう〜、はあ〜…」
「な、何よう!!そんなに怒らなくたっていいじゃない、気が付かなかったんだもの!!
分かってたんなら、もっと早く教えてよね、清!」
「首根っこ絞められちゃ、教えるもんも教えられないだろう。宋江、宋清に謝りなさい!」
「むう〜〜…」
口を尖らせた宋江が、じっとりした恨みがましい目で宋清を睨みつける。
子供っぽい性格ゆえ、意外とプライドの高いところもある彼女は、兄のように慕っている晁蓋に叱られて、ご機嫌斜めのようだ。
「宋江。潔く非を認めるのも、時には必要なんだぞ。
第一、絞まりどころが悪かったら、可愛い弟が死んでたかもしれないんだぞ?」
「じゃあ、ごめんなさい」
「「早っ!」」
まあ、素直なのは彼女の長所なのだが。
間髪入れないこの切り替えしには、さすがに二人とも口があんぐり開いてしまう。
(でも、まあ、いつまでへそを曲げていても、しょうがないですしね…。)
しっかり者の弟は、そそっかしい姉を許してやることに決めた。
「…仕方ないですね。折角晁蓋さんと会える日なのに、空気悪くして困らせてもなんですから…」
「そうよそうよ!それでこそ我が弟!!
じゃあ、晁蓋さん、早速、市回ろうよ!さっきね、美味しい桃があるって言われたんだよ!ねえ、一緒に食べよう!?」
「………」
宋清は、もう言葉も出ない。
「…本当、苦労するなあ、宋清…」
「…晁蓋さん、代わってください」
「すまん、ムリだ」
「…ですよね……」
濃い溜め息をついて肩を落とす宋清の背中を、晁蓋はまたよしよしと撫でてやった。
そう、それは、そんな普通の一日で。
いつものように、何気ない一日で。
でも、そんな一日の中で。
宋江たちは、『彼』と出会った。
「もし、そこの方」
「あ、はい。私かな?」
ふいに、後ろからかけられた低い声に、晁蓋が振り返る。
不思議な、男だった。
それが、彼の第一印象。
宋江は、思わず大きな目をぱちぱちさせた。
「失礼。東渓村の晁蓋殿をご存知ですね?」
「……晁蓋は、私だが。失礼ですが、貴方は?どこかでお会いしたことは…ないと思うけれど」
にこりと笑みを浮かべながら、晁蓋が男に尋ねる。
だが、警戒は完全に解いていない。目が笑っていないのだ。
それをあまり気にしていないような様子で、その男は目深にかぶっていた傘を跳ね上げ、長い髪を左右に振り払った。
この地方ではめったに見られない、金色の柔らかな髪が零れ落ちる。
彫りの深い、まるで異国人のような顔立ちがあらわになった。
(……うわあ、変わった顔つき…。どこの出身なのかしら)
正直に顔に出す姉の服を、弟がつんつん引っ張って注意する。
自分は疑問を顔になるべく出さないようにして、宋清が男の動向に注目していると、
二呼吸分ほど間を置いて、彼の薄い唇が、静かに開いた。
「……我が名は公孫勝。薊州二仙山より参った道士です」
低いトーンの声が、男の正体を告げた。
「…薊州、かい?そこに知り合いはいないと思うんだが…。この『私』に、用があるんだね?」
警戒を解かずに、注意深く質問する晁蓋。その視線を、平然と受け流す公孫勝。
少しずつ凍り付いて冷たくなる空気に、宋清は耐え切れずにはらはらと視線をさまよわせた。
「ええ。我が師――羅真人様から、貴方に言伝を承っております」
「羅真人…?…悪いが、知らないね」
「俗世を離れられた方ですから。貴方がたに分かりやすいように言えば、師はいわゆる、『仙人』なのです」
「「仙人!?」」
思わず大きな声を上げた宋姉弟に、ちらりと視線を寄越しながらも、
公孫勝はすぐにそれを晁蓋の方に向け直す。
「…失礼ですが、こんな往来で話せるような内容でもありませんので。
貴方のお屋敷に私を連れて行っていただけるとありがたいのですが?」
言葉遣いは丁寧だが、全く感情のこもらない、ただ文章を読み上げているような平坦な声だった。
流石の晁蓋も、彼を扱いかねて、少々困惑の表情を見せ出す。
「……話なら、すぐそこの茶屋ででもどうだい?個室が――」
「機密の話ですので」
公孫勝はにべもない。
「あのう、晁蓋さんちがダメなら、私の家に来ます?」
「げっ!?ね、姉さんっ!?」
名案だとでもいうように、ぽろりと宋江がこぼした言葉に、宋清が泣きそうな表情を見せる。
――怖いのだ、とても。
この能面のように表情を変えない、異国風の謎の男が。
「…結構です。私が用があるのは、今は貴方ではありませんので」
(…『今は』?)
顔を見合わせる、晁蓋と宋清。
鈍い姉の方は、全く言葉の意味に気付いていないようだが。
「晁蓋殿。私は別に、貴方に危害を加えに来たわけではありません。
そんなことをしても、私の得になどなりはしない。そうでしょう?」
「……それは…そうだが…」
今までに出会ったことのないタイプの男だったので、どうにも上手く対応しかねて、晁蓋ががしがしと頭をかく。
「……仙人様が、私に一体何の用があるんだい?仙人の世界にも、お金が必要とか言わないだろうね?」
「分かった!ひょっとして、スカウトとか!?」
「……」
宋江の言葉に、公孫勝の顔のパーツは、どれ一つ動いてくれなかった。
なんだか冷たい風が、二人の間を通り抜ける。
「……姉さん…。冗談きついですって…」
実際のところ、宋江は本気だったのだが。なんせ、彼女は空気が読めないのだから。
どうにも落ち着かない空気を少しでも払おうと、ごほん、と晁蓋が空咳をする。
「……宋江、宋清。じゃあ、私はこの方の相手をするから。
ほら、お小遣い。適当に、市を見回ってから帰るといい。美味しい桃があるんだっけ?」
「うわあ、晁蓋さん、ありがとう!!」
この空気の中で、にこにこと心から嬉しそうに笑える宋江を、弟はある意味大物だと思った。
というか、自分がこんなに『怖い』と思うこの得体の知れない男を、姉は全然怖がっていないように見える。
普段、様々な人間と触れ合っている晁蓋でさえ、この道士からは一歩引いているというのに。
(世間知らずだからかなあ…。姉さんって、本当得体の知れないとこあるよね…)
本日何度目か分からない溜め息をつきながら、宋清が晁蓋の方に顔を向ける。
「…晁蓋さん。お小遣い、どうもありがとう。…あのう…」
「…ああ、宋清、大丈夫だよ。とりあえず、話だけでも聞いてから、な。
まあ、悪いようにはしないから、私に任せておきなさい?」
晁蓋にそう言われては、宋清も素直に引き下がるしかなくて。
「…分かりました。じゃあ、姉さんの面倒は、頑張って見ておきますから」
「頼んだよ。じゃあ、今日はこれでな」
手を振る晁蓋の姿を、宋清は後ろ髪を引かれるような気持ちで見送った。
「またね〜!!晁蓋さん、公孫勝さん!!」
「!?ちょ、姉さん!?」
その『彼』との出会いによって、平凡だったはずの自分たちの生活が大きく
変わってしまうなどと、この時の宋江たちには思いもよらないだろう。
『彼』のもたらす情報が、それが起こした小さな事件が、しだいに中国全土を
巻き込むような巨大な事件に発展していくなど、想像もつかないだろう。
(…『哀れ』、なのだろうか?)
公孫勝の鋼の心が、ほんの少しだけ疑問の色に色づいて。
感情のこもらない彼の瞳が、ほんの微かに細められる。
(あの宋江たちが、だろうか?)
何も知らずに、こうして自分の投じた石が起こす波紋の中に、知らず知らず巻き込まれて。
行き場を失くし、追い詰められ、そこから立ち上がることを運命付けられた存在。
わたし
(公孫勝自身が、だろうか?)
この先に何が起こるのか分かっていて、彼女らを陥れるための小石を投げさせられて。
きっかけを作っておきながら、ただ、それを遠くで公平に見続けることを義務付けられる存在。
(いや、違う)
疑問は、しかしすぐに打ち消される。
公孫勝は、ただ石を投げ入れに来ただけなのだ。それが、彼の役目。
その波紋を広げるのが、ここにいる晁蓋と、そしてあの『天魁星』の役目。
公孫勝には公孫勝の役目がある。そして、彼らには彼らのそれが。
それは、決して不幸なことでも、哀れなことでもない。
公孫勝の心は、そう答えを導き出した。
(私は監視する。私は、『天間星』なのだから。それだけのことだ)
鋼の心は、もうゆるがない。
「えーと…。じゃあ、宋江たちも行ったことだし…。ええと、君…」
「公孫勝です」
「公孫勝…さん。では、私の屋敷に…」
「ええ、参りましょう」
晁蓋は、まだ知らない。
『彼』の役目も、『自分』の役目も。
このまま屋敷に帰った自分を待つ、これからの運命のことも。
公孫勝は知っているけど、晁蓋はまだ知らない。
それはフェアではないけれど。教えることも、手を差し延べるのも、公孫勝の役目ではないから。
「……天間星…」
「…ん?…あの、何か言ったかい?」
「いいえ、別に」
間髪いれずに答えが返ってきて、晁蓋の表情が、苦笑いのそれになる。
(宋江とは性質が違うが、ある意味似ているかもなあ…。扱いづらそうなところとか…)
妙なのに捕まってしまったなあ、と、懐の広いことで知られる晁蓋も、少々不安になってきた。
「…じゃあ、私は馬で来たんで…。君はどうする?距離があるから、よければ君の分の馬を購入するけど…」
「いえ、術で雲を喚べますから。どうぞ馬に」
「え…。…ああ…その…。うん、分かったよ。じゃあ、そうさせてもらうから…」
必要以上の会話をしない公孫勝に、もはや苦笑いを隠せずに、ほうほうのていで馬の元へ向かう晁蓋。
小さくなるその背中を、公孫勝の鷹のように鋭い目が、無感情に見送って。
「――入雲竜、公孫勝。いざ、参る」
ゆるぎない、鋼の声がつむがれた。
運命の小石が、空を舞って。
ちゃぽんと小さな音を立てたのが、公孫勝には聞こえた気がした。
FIN. NEXT…第1話 『生辰綱事件』其弐