「あ〜あ、全くよお。こんなちまちま見回りしてたって、ラチあかねえと思うんだけどな…」

 見回りで東渓村を訪れていた雷横は、霊官廟の中で、奇妙な男に遭遇した。


 『水滸伝』第1話  生辰綱事件 其参


 先日のことだ。

 雷横と朱仝の上司である時文彬という男から、二人に向けてある命が下った。

 その内容とは、最近の賊徒の類の増大に備えた警備の強化。

 特に、最近では、『生辰綱』の噂を聞きつけ、それを横取りしようと画策する者まで現れているとか。

 梁山泊の勢力がのさばっていることといい、より一層の盗賊狩りが求められているというわけだ。


 「…せいしんこう?何、それ」

 宋江が首をかしげる。

 宋江以外の三人の手から、箸が仲良く滑り落ちた。


 あれから。

 宋姉弟は、約束どおりに仕事を終えてすぐ宋家に駆けつけてくれた朱仝・雷横と共に、
 軽い夕食をとりながら、密談をしていた。

 「姉さん…。それでも、役人のはしくれですか?」

 心底呆れたような顔の宋清をなだめつつ、苦笑を浮かべた朱仝が宋江に説明してやる。

 「宋江殿、梁中書様のことは分かりますか?」

 梁中書。東京にて太師――いわゆる宰相を務めている蔡京という男の、娘の婿に当たる男である。

 「うーんと…。一応、名前くらいなら」

 「…現在のこの国の皇帝――徽宗皇帝陛下ですね。
 その陛下が政治にあまり興味のない方だというのはご存知ですか?」

 「うん、聞いたことがあるよ。陛下は、あんまり戦とか国のこととか興味ない方だって。
 穏健派って言えば聞こえはいいけど、そういう政治的なことは、結構部下に任せちゃってるっていうよね」

 「ええ。…ですから――現在、実質この国の政治を動かしているのは、
 陛下の周囲を囲んでいる、『四姦』と呼ばれる宦官たちです。
 高球。童貫。楊箭。蔡京。――いずれも、よい噂を聞かぬ者ばかりですが…」 

 朱仝が顔を曇らせる。

 「高球なんて奴なんざ、『蹴鞠が上手かった』とかいう理由で陛下に気に入られて、取り立ててもらったとか聞くぜえ?
 陛下、どんだけ平和なんだよっていうか、頭おめでたいっつーか…」

 「雷横さん、不敬罪だよ、そういうの?」

 宋江がいたずらっぽく口を尖らせて注意すると、雷横がぺろりと赤い舌を出す。

 「つってもなあ。この国は、北には大国の遼があるし、各地で賊が反乱起こすことも少なくねえし…。
 常に戦のにおいのする国なんだぜ?トップの奴がのんきに蹴鞠とか楽しんでる場合じゃねえだろうに。
 なあ朱仝、そう思わねえか?」

「うむ…。まあ、君は下級層の出身だけに、民の生活には詳しいからね。
 戦が始まって苦労するのも、いいかげんな政治で生活を圧迫されるのも、結局いちばん被害を受けるのは民草だ。
 そう思う気持ちも、分からないではないよ」

 急に話を振られた朱仝が、お茶を濁す。

 「うーんと…つまり、梁中書様も、あんまりいい人じゃないってこと?」

 「まあ、ことはそう単純ではないのですが…」

 あまりにストレートな宋江の物言いに朱仝は苦笑するが、すぐに顔を引き締める。

 「…いいですか?蔡京様の義理の息子である梁中書様は、当然蔡京様に恩があるということですよね。
 それで、近いうちに彼の誕生日のお祝いの品物を届けようという話があるのですよ。それが『生辰綱』です」

 はあぁ、と宋江が溜め息をつく。

 「えーと…じゃあ、太師様にプレゼントするようなものだもの、当然…」

 「金銀財宝どっさどさ、てな。ていうか、去年も同じように梁中書様から贈り物がされたんだと。
 でも、結局、賊に襲われてパアだったらしいけどな」

 雷横が両手を広げて肩をすくめる。

 「昨年もそうやって漁夫の利をせしめた者がいる以上、『今年は自分が』と思う賊が、どれほどいると思いますか?
 まして、その財宝を買うための資金が、民から税金として搾り取ったものから出てきたのだとしたら…?」

 「うわあ…」

 ようやく事態を飲み込めてきた宋江が、思いっきり顔をしかめる。

 「そうだよね、そんな財宝があったら、どれだけ生活助かるか分からないもん。
 命がけでも欲しいって思う人は出てくるよね!?しかも、元は自分たちの払った税金なんだし…」

 「そうなんですよ、姉さん。
 ですから、その前に雷横さんたちが、少しでも不埒な考えを持つ者を減らすように言われてるわけなんですが…」

 「まあ、そんなちっとばかし見回り増やしたくらいで、何とかなるようなら苦労はしねえんだけどな。
 …んで、話を戻してもいいかい、みんな?」

 三人が頷くのを確認してから、雷横が話の続きに入る。



 その日、雷横は部下を数人連れて、東渓村の東の山を歩いていた。

 朱仝は村の西側半分、雷横は村の東半分が警戒の担当地域なのだ。

 そして、毎日見回りをした証拠として、仕事帰りに山へ登る。

 今の時分、丁度良く紅葉している山のもみじの葉をちぎって、疑り深い上司殿の所に持って帰るのである。

 最近の雷横には、そんな習慣ができていた。


 今日も今日とて、いつもどおりに大きな紅葉の葉をむしって。

 これでようやく帰路に着けると、部下たちと一斉に伸びをする。

 そんな時だった。

 部下の一人が、霊官廟の様子がおかしいことに気が付いたのは。


 この村の霊官廟は、現在廟を守る者もなく、常に社殿の門が閉じっぱなしの状態になっているのだが…。

 それが、少し開いている。

 雷横が警戒しながら中を覗いてみれば、草が伸び放題の荒れ果てた敷地内には、誰かが通ったような足跡が残っている。

 「おい、お前たち…」

 「はっ、雷横さん」

 部下と共に、十分に気を配りながら廟の戸を開ける雷横。

 「――!?」

 そこには。

 一人の男が大いびきをかいて眠っていた。

 着物を脱いで丸めて枕にして、供え物用の机の上に横になって。実に気持ちよさそうに、すやすや眠っている。

 側に置かれた、使い込まれた朴刀を見るに、東渓村の善良な民というわけではなさそうだった。

 明らかに、どこかの流れ者といった雰囲気だ。


 「……雷横さん、どうします?」

 「…とりあえず、ふん縛れ」 部下たちが無抵抗の男に縄をかける。

 図太いというかなんというか、男は縛り上げられても大いびきをやめようとしなかった。

 顔が赤いところを見るに、酒が入っているというのもあるのだろう。

 雷横は呆れたものの、これも仕事だと男を起こしにかかる。


 「…オイ。オイっ!!お前!!こんなとこで何してやがる!?」

 雷横が耳元で大声で怒鳴ってやると、ようやくその怪しい男が目を覚ました。

 燃えるような赤い髪の、ぎょろりとした目の男だった。

 よく面構えが悪いのを人に指摘されてしまう雷横から見ても、かなりのレベルで凶悪な顔だ。

 酒が入って顔が赤いこともあって、『赤鬼』という単語が非常に似合う。

 大柄というほどではなかったが、裸の上半身はよく鍛えられていて、かなりの武芸の腕前を予想させた。

 
 「ああ〜?…ん?な、何だこりゃあ!?テメエ、何しやがる!?」

 自分が縛られていることに気付いた男が、抵抗を試みようとする。

 「おい、暴れんじゃねえよ。俺は、この東渓村の見回りを仕事にしている雷横ってモンだ。
 お前、ここがどこだか分かって寝てたのか?怪しいぜ、ちょっくら話を聞かせてもらおうか?」

 事情が飲み込めたのだろう、男が抵抗をやめる。

 「ほれ、名前は?」

 「あ、いや、オレはその〜…お、王ってモンだ!
 アンタ、晁蓋を――東渓村にいて、晁蓋を知らないわけねえだろう!?
 甥っ子なんだよ、オレ。彼を尋ねにきたんだよ!」

 「はあ!?甥っ子って…。ウソこけよ!お前、甥っ子って言葉の意味、分かってんのか!?
 晁蓋さんのこたアよく知ってるが、お前とそう年齢が違うような人じゃねえぜ!?」

 雷横の言葉に、男があからさまにしまった、という顔をする。

 「何イ!?…あ、あ〜〜…。た、確かに、オレ、学とか全然ねえからよ。
 ちょっと関係を勘違いしてたのかもなあ…。で、でもよお、とにかく、遠い親戚には違いねえんだよ!!」

 「……」

 「いや、マジなんだって!!ちょっと、俺の家の方に色々な事情ができちまってよオ…。
 遠い親戚っていう晁蓋サンを尋ねて長旅してたんだけど、その間、ず〜っと野宿だったからさ。
 つい、こう…なあ、屋根のある建物を見つけて、嬉しくなっちまって!!」

 「……」

 「本っ当、浮かれちまって!ついつい酒飲んで、そのまま寝ちまったんだ。
 なっ、なっ!?おかしかねえだろ!?決して怪しいモンじゃねえんだよ!」

 怪しい。

 ぶっちゃけ、怪しい。

でも、一応話の筋は通っている。

 雷横が、苦虫を噛み潰したような顔をする。

 相方と違って、彼はそう物事の裏だのなんだの考えられるようなタイプではないのだ。


 「雷横さん…。どうするんです?」

 「…うーん…。ちょっと、こいつの言うことだけじゃどうもなあ…。
 一緒に晁蓋さん本人のとこまで行って、確認してくるか」

 「ゲっ!?」

 赤毛の男が、あからさまに嫌な顔をする。

 「…何だ?俺たちが一緒に行っちゃ、何か都合の悪いことでもあるのか?」

 「えっ?あ、い、いや、だって、会うの本当数十年ぶりだからよオ。
 晁蓋サン、オレのことちゃんと分かってくれんのかってさア…」

 「そりゃそうだが…。自分に親戚がいるってことくらいは覚えてるだろ。さ、行くぞ」

 一応縛ったままの男を連れて、雷横たちは晁蓋の家を目指す。

 ようやく彼の家が見えてきたところまで来たとき、雷横は、家の門の前に誰かが立っていることに気が付いた。

 「んん?晁蓋さん…?」

 そこには、晁蓋と…見慣れぬ、彫りの深い異国風の道士。

 まるで雷横がここに来るのを前もって知っていたかのように。

 二人とも腕を組んで、静かに門の前でたたずんでいた。



 「『道士』って…。まさか…公孫勝さん?」

 「えっ…」

 姉の言葉に、弟の顔色が一気に悪くなる。

 「こうそんしょうさん?」

 「この前、晁蓋さんのところを尋ねてきた道士の方です…。彼が、まだ晁蓋さんと一緒に…?」

 首をかしげる朱仝に答える宋清。

 その顔からは、戸惑いの色が晴れない。


 ――そう。

 思えば、彼が来てすぐだ。晁蓋の様子がおかしくなったのは。

 勿論、彼のせいだと言える証拠は何もない。

 しかし、彼のせいではないという証拠もないのだ。

 むやみやたらに人を疑っていても仕方がない、それは分かるのだが――。


 「……で?それからどうしたの、雷横さん」

 「ああ。ま、晁蓋さんが甥っ子って認めたんだよ、そいつのこと。
 何でも、晁蓋さんの親父さんの兄弟が、結婚がすげえ早かったとかなんとかでさ…。
 そういう場合、例え晁蓋さんの方が年下でも、血筋上は晁蓋さんが叔父さんってことになるんだとよ。
 何も問題なかったって」


 「…本当に、問題点はなかったのかい?晁蓋殿の様子がおかしかったとか…」

 朱仝に諭されて、よく考えてみる雷横。

しばらく上の方の空間を睨んでいたが、やがて首を横に振る。

 「…別に。強いて言えば、対応がすっごく完璧だったってことくらいかねえ」

 「完璧?」

 「そう。男の方はうろたえたりどもったり、明らかにおかしい風だったのによ。
 晁蓋さんの方は、手紙を前もってもらってたとかで、そりゃもう落ち着いたもんでさあ…」

 「…その手紙の内容は、見せてもらったんですか?」

 宋清の問いを、雷横が肯定する。

 「そりゃ、一応はなあ。つっても、個人宛の手紙だ。偽造でも何でもできるんじゃねえかとは思うが…。
 でも、そんなもんこさえるには、少なくとも俺たちが現れる数時間前には、晁蓋さんは俺がそいつを連れて
 やってくるって、知ってなくちゃいけなくねえか?」

 あ、と宋清が声をもらす。

「どうみても男と晁蓋さんは初対面な様子だったから、奴があらかじめ晁蓋さんの屋敷に事情を伝えに言っておいて、
 わざわざ俺に捕まりに言ったってのもナシだぜ。第一、そんなことする理由もねえだろ?」

 雷横が頭をぼりぼりとかく。

 「本当に、初対面そうだったのかい?演技の可能性は…」

 「や、晁蓋さんの方は知らねえが、男の方は小細工できそうにない感じだったからなあ…」

 すっかり話が行き詰ってしまい、全員ではあ、と大きな溜め息をつく。

 「…ま、てえことなんだけどさ」

 語り終えた雷横が、すっかり冷めてしまったお茶をすする。

 「うーん…確かに、怪しいといえば怪しい話なんだが…」

 「やっぱり、『それで、どうなのか』ってとこが、まだいまいち分からないですよね…」

 頭脳担当の朱仝と宋清が首をひねっている横で、宋江が唇を尖らせて机に突っ伏す。

 「もお〜〜〜。じゃあ、結局晁蓋さんが困ってる理由って、何なのよう。
 雷横さんに来てもらった意味、ないじゃない〜〜」

 「姉さん、人を招いておいて何てこと言うんですか!!」

 「まあまあまあ。確かに、ただ混乱させたっつうのは本当だし…」

 宋江の空気の読めない一言に気を悪くした風でもなく、雷横が空になった湯飲みを机に戻す。


 「……雷横。そういえばもうこんな時間だね。私たちは帰らないといけないんじゃないかな?」

 「へっ?」

 少しの沈黙を挟んだ後、唐突に椅子から立ち上がった朱仝。

それに一瞬驚いたものの、その意図を察知した雷横は、宋姉弟ににかっと笑顔を向ける。

「あ〜〜、そういやそうだな。うちの母ちゃんも、絶対心配してるわ。
 悪いな宋姉弟、あんまいい情報やれなくってさ」

「え〜〜!?本当だよ、雷横さんたら。急になんなの、二人して〜」

 「姉さん!!ちょっと、やめてよ!」

 更に無礼を重ねる姉を必死に諌める弟を、苦笑いの都頭二人が見守る。

 せわしなく宋家を出た二人は、門の所で大きく手を振って見送る宋姉弟の姿が消えるまで、
 明るい笑みを浮かべていたが…。

 その姿が遠くなるにつれて、日ごろ職務に当たる際の、きりりとした表情になっていった。

 「……んで?どうしたってんだ、朱仝?あの姉弟に聞かせたくない話があんだよな?」

 馬の手綱を解いている朱仝の後姿に、雷横が話しかける。

 「……例えばだけれど…」

 真剣な表情の朱仝が、雷横の方に向き直る。

 「晁蓋殿はこの辺りでは有名な方だから…。
 生辰綱を狙った賊から、何らかのアプローチがあってもおかしくないと思わないかい?」

 「ハア?…まあ、あってもおかしくないとは思うけどよ。けど、それに晁蓋殿がのるかどうかってのは別だよな?」

 朱仝が深く頷く。

 「でも、だよ。もし晁蓋殿に不利な条件…弱みを握った者からのアプローチがあった場合は?」

 雷横の太い眉がピクリと動く。

 「…てえと、なにか?お前は、晁蓋殿がすでに賊たちに操られてる可能性もあるんじゃないかって、言いてえのか?」

 「…そういう可能性もあるんじゃないか、という話だよ」

 「……んで?あの姉弟が、その『弱み』になる場合もなきにしもあらず、てか?」

 神妙な顔で頷く朱仝。雷横も、流石に顔を曇らせる。

 「宋江殿は、確かに人望は厚いけど、あまり立ち回りの利口な子ではないからね。
 何かあった場合、一人では上手く切り抜けることができないだろう」

 …まあ、だからこそ、晁蓋や朱仝たちが、つい世話を焼いてしまうのだが…。

 そんな宋江の『弱み』が、晁蓋の足を引っ張ることも、ないとは言い切れないはずだ。

 「あの子の親や兄の代わりになっている晁蓋殿の『弱み』になるには、十分な存在じゃないかな?」

 「…そういう考えには、いい顔できねえな」

 「すまない。まず、悪い可能性の方から考えてしまう性質だから」

 「ま、あんたがそういう奴だから、前しか見えてない俺としちゃ、ありがてえことなんだがよ」

 にかっと、笑ってみせる雷横。朱仝の顔から、ようやく緊張の色が抜ける。

 「オッケー、暇を見て、俺たちで晁蓋殿の様子と宋姉弟の様子に注意しようぜ。それでいいか?」

 「ああ。後、宋江殿がいつもの調子で、何か妙なことをやらかさないようにもね」

 「はっはっは、違いねえや。
 ……っと、じゃあ、俺ここ右だから。あ〜、母ちゃん、絶対心配してらあ」

 「ああ、母上によろしく」

 唯一の身内である母親思いで有名な雷横のことだ。

 本当なら、仕事が終わり次第、さっさと家に帰って母君の面倒を見てやりたかったはずだろう。

 それなのに、こうして晁蓋や宋姉弟、しいては町の人たちのために時間を削れる彼のことを、朱仝は素直に尊敬している。


 「生辰綱、か…」

 ぽつりともらした独り言が、静かな闇夜に広がっていった。

 朱仝は、世間的には高い地位の家の出身だ。

 だから、庶民出の雷横ほど、一般庶民の生活の苦しみを理解してやれない。

 それは、自分でもよく分かっている。


 表面上は理解しているつもりでいても、やはり直に触れてみると、事は違うのだ。

 いつも明るい顔で商売をしている者が、裏でしている努力も。

 笑顔でそこらを駆け回っている子供たちが、家に帰れば家族のために、
 小さな手にマメやあかぎれを作るような手伝いをしていることも。

 働く体力も身寄りもなくなった老人たちが、日々どれだけ少ない食事で暮らしていることかということも。

 みんな、都頭として雷横と町を歩き回って、初めて知り得たったことだった。


 生辰綱を狙う者の半数以上は、そういう日頃の暮らしに困っている者たちだろう。

 近年は、『四姦』の民のことを省みない無茶苦茶な政治によって、
 まともな生活を送れずに盗賊に身を落とす者は増加している。

 その者たちのことを、ただ『賊』と一言でくくることだけは、朱仝はしたくなかった。


 彼らが裏でどれほどの苦しみを味わっていたのか、きちんと知りもしない者が、勝手に彼らを『悪』と決め付ける。

 そのことを思うと、胸が痛んだ。

 その思いは、この地を守る都頭としては間違っているのかもしれないけれど――…。

 朱仝が吐いた大きな溜め息は、白く色づいて暗闇に溶けていった。


 「…まあ、確かに、今の時点では何とも言えないことなのだからね…」

 考える材料も足りないし、しばらくは、様子を見るしかできないだろう。

 雷横と協力し合えば、通常の任務をこなしながら、それとなく宋姉弟や晁蓋を見張ることは難しくないはずだ。

 晁蓋が、今どういう状況に置かれているのか。

 確かに、それは気になることだけれど、今の朱仝や雷横には、他にできることがない。

 せいぜい、事態が最悪のものにならないように、気を配るだけだ。

 ならば、せめてその「せいぜい」をしっかりこなそう。そう、朱仝は苦笑する。


 知らぬ間に、手綱を強く握り締めていたのだろう。

 朱仝の馬が、いつの間にか歩みを止めて、主人の様子をうかがっていた。

 苦笑した朱仝がその首を優しくぽんぽん叩いてやると、ようやく馬は我が家に向かって歩き出してくれた。


 朱仝たちが、その『生辰綱』が八人の盗賊たちに盗まれたのだと知ったのは、その数日後のことだった。



  FIN.    NEXT…第1話『生辰綱事件』・裏 其壱