『水滸伝』第0話 プロローグA〜公孫勝
むかしむかし。
それは、じんそうというなのみかどのじだいのこと。
ときのみかどが、あくえきをはらうためにつかわした、ひとりのおとこ。
そのおとこがひらいたとびらは、そうだいなものがたりをひらくためのとびらだった。
パンドラのはこが、ひらかれて。
ものがたりのまくがあいた。
さあ、ほしぼしのものがたりがはじまるよ。
「公孫勝や。少しいいかのう」
ふわり、と。老人が『そこ』に降り立つ。
公孫勝と呼ばれた青年の浸かる、清めの湖の中。
音も波紋も何も立てずに、彼はそこに降り立った。
「どうかなさいましたか、羅真人様」
鋼のような、硬い、感情を伴わない声で、彼の弟子が応える。
目の前にまさに『浮いて』いる彼の師匠――仙人・羅真人は、いつものように、
からからと笑ってそれを受け流した。
「そのままでいいから、聞きなさい。お前の『役目』を果たす時が、すぐそこに迫っておるぞ」
師匠の言葉に、弟子のいつも殆ど動かない眉が、ほんの少しだけ跳ね上げられて。
「……始まるというのですか」
ほんの一言だけ、言葉がつむがれた。
師が用意した旅用の丈夫な道衣は、公孫勝の道士らしからぬ大柄で立派な体格にぴたりと合っていて。
袖を通せば、まるで自分の身体の一部であるかのように感じられた。
数珠を首に巻く。愛用の樫の杖を携える。
路銀を袋に携えて、旅支度を終えた公孫勝は、師の元へ挨拶に向かう。
「――では、行ってまいります」
「おお、気をつけて行くのじゃぞ」
十数年、修行をともにした師とのしばしの別れ。
それすらも、ただ『見届けること』――公平な立場で、誰をひいきすることもなく、
ただこれから起こることを見届ける使命を帯びた彼の心を動かすことはなかった。
鋼のように。何物にも、心動かされることのないように。
そうプログラムされた存在。
そんな自分を、公孫勝自身は別段嫌悪してはいなかった。
(与えられた役目があるなら、ただ果たすのみ。それだけのことだ)
弟子の感情の映らない顔が、後ろを振り向いて。
力強く歩き出した愛弟子の後姿が、視界の中から消えるまで。
師は、包み込むような視線で彼を見送っていた。
向かうは、済雲州は運城県。
後に『生辰綱事件』と呼ばれる小さな事件。
しかし、後に中国全土を脅かすことになる『梁山泊の好漢』たちを集結させるための最初の事件。
それを起こすため、そしてそれを間近で見届けるために、『天間星』である彼は旅立つのだ。
薊州二仙山。
自分が二十数年の人生のほとんどを過ごした、『我が家』とも呼べる存在。
ごつごつとした岩だらけの足元を、一歩一歩踏みしめるようにして、公孫勝はその山を下った。
五合目ほどまで下ると、毎日一日の始めと終わりに浸かることを義務付けられた、清めの湖が見えてくる。
(立ち寄る必要もないだろうが)
しかし、立ち寄ってはいけないという理屈もないから。
もうしばらく浸かることもないであろうその湖の水面に、公孫勝は小さな小石を投げ入れた。
ぽちょん。
波紋が、広がる。広がって、広がって、大きくなって、そして消えていく。
彼は、投げに行くのだ。その小石を。
そして、その波紋が広がるのを、それが大きくなって消えていくのを、『公平に』見届ける。
神と人の間で。
「天間星」
声に出して、呟いた。
「――入雲竜、公孫勝。参る」
ほんの、ほんの少しだけ。
鋼のように硬い声が、震えたような気がした。
FIN. NEXT…プロローグB〜李俊