『水滸伝』第0話   プロローグB〜李俊





      そんな、夢を見た。 

      一人の道士が、今旅立って。

      その心は、鋼のように冷たく、硬かったけど。

      でも、『鋼』そのものじゃなかった。

      ちゃんと、『人』のものだった。





  「…しゅん……俊兄イ?」

  「……ん?」

   むくりと。

  夢から覚めて、目をこすりながら李俊が半身を起こすと、
  側でのんびり網の手入れをしていた双子の兄弟――童威と童猛が、目を輝かせて、こちらに寄ってきた。


   「おっはよ〜〜俊兄ィ!!」

   「よく寝れましたっか!?」

   「…イヤ、そりゃコイツに言うことだろうが」


   『コイツ』。

   李俊の左手の先が『繋がって』いる相手。

   小さな頃から、この異常な『能力』に悩まされてきた、彼の『弟分』にして、『同志』。

   そんな異名を取る青年――張順が、李俊に手を握られているからか、
  彼が『接続』を切った後なのに、まだ幸せそうに眠りこけている。


  (――まあ、そうだよな。俺がいないと安心して眠れない、慢性睡眠不足の奴なんだから…)

   張順は、『未来を夢を見る』ことができる。

   それも、不吉なものばかりを――だ。

   小さな頃から、その『能力』に悩まされ続けた彼は、敬愛する李俊が側にいないと、

   安心して眠れないという性癖を抱えたまま、大人になってしまったのだ。

   大人になって、仕事場を分けて以来、彼は慢性的な、李俊不足からくる睡眠不足に常に悩まされている。

   『李俊がいないから』。『悪夢が自分を食い尽くそうとするから』。
 
  李俊が『接続』してやらない限り、満足に睡眠を取れない日々を送っているのである。

  
  (ま、今日みたいに、仲間皆で集まるときくらいじゃないと、俺がゆっくり側にいてやれないからな。
  今のうちに、たっぷり寝溜めさしてやんねーと…)

  「お〜〜い、俊ちゃん。お目覚めだって?そろそろ弘んち向かおうか?」

  手を布巾で拭いながら、この酒場の主人である李立が、ひょっこり顔を出した。

  「もう時間的にも行かなくちゃだし。
  早くしないと、向こうで待ってる『番犬』たちにも悪いからね〜。順にもそろそろ起きてもらいましょーか」

  人当たりのよい顔で、ころころ笑いながら、李立が腰の薬ポシェットから、怪しげな小瓶を取り出した。

  李俊の顔が、「あ〜あ」とでも言いたいように歪められる。

  「威、猛。ちょっち身体起こしてよ」

  「「OK!!」」

  双子ならではのノリとコンビネーションで、童威と童猛が左右から張順の半身を押さえ込む。

  李俊がつないでいた手を離して、彼らの様子を大人しく眺めていると、李立は安眠香の火を落として、
  意地悪そうににたりと笑った。

  それから、くすくす笑いながら、取り出した小瓶の中の薬を張順の上下のまぶたや鼻の下に塗り込み出して。

  つーんとした、筋肉痛薬特有の匂いが、周囲に漂った。

   「ふごおッ!!?」

  たまらず、張順が跳ね起きる。

   「「ひ〜〜、ぎゃっはっはっは!!」」

   「ハイハ〜イ、お目覚めですね。早くカオ洗ってきなよ。こういうの粘膜に塗ると、後が怖いからね〜?」

   「塗っといて何言いやがるか、この悪徳居酒屋〜〜〜!!」

  泣きながら張順が外に飛び出す。

  ほどなくして、景気のいい水音。

  川の中に飛び込んで、薬品を流し落とす気のようだ。

   「あっはっは。川が近くてよかったね〜。」

   「…や、調理場の手洗い水、貸してやればいい話だろーに。
    今から船に乗って出かけるってのに…船が水浸しになっちまうだろうが」

  李俊が、呆れた表情を悪ノリトリオに向ける。

  「ぎゃっはっは、じゃあ、順は一人だけ泳ぎで!俺たち勿論船な☆」

  「ぎゃっはっは、そりゃいいや!
   あいつもうカッパそのものだもんな〜、本人も快適だし、船も広くなって一石二鳥!?」

  人の不幸を完全に楽しんでいる、この双子。

  李俊は大きく溜め息をついた。

  「そんなことやってると、ホラ…」

  「て〜〜め〜〜え〜〜らあダブル童オオオ!!食らえッ!!」

  「「ごぶおおっ!!」」

   案の定。
 
  目や鼻の下を真っ赤にした、水の滴るカッパ男が、両手にバケツを提げて戻ってきて。
 
  双子に向かってその中いっぱいの水を、景気よくぶっ掛けた。

 
  「てめっ、順!!何しやがる!!」

  「うるせえ〜!!人の安眠妨害しといて〜〜!!」

  「直接妨害したのは俺たちじゃねえだろ!!やったのは…」

  「お前ら」

  部屋の温度が、十度ほど下がった気がした。

  「…ちょっと聞こうか?…今いるこの家、誰の家だっけ?」

  「……えっと……」

  「り…立様のおうちてか……お店です…ハイ……」

  凍りつくようなドスの効いた低い声に、すっかり縮こまってしまった三人組。

  「…なあ、順?今、お前、そのお店の中で何やった…?」

  「ヒッ!?えっ、あ、イヤ、これは…その……」

  さっき張順が双子に撒いた水と、張順本人から滴る水のせいで、室内はじっとり水浸しになってしまっていた。

  魔王の表情をした李立が、更に畳み掛ける。

  「俺さあ…普段ここで寝泊りしてるわけだよ。そう、丁度この部屋でね…。 
   お前が寝るのに貸した布団…そのびっちゃびちゃのやつね…。それも、俺のだよ…?」

  (あーあ。ダメだ、こりゃ。手の差し伸べようがねえ)

  李俊は早々とサジを投げた。

  「い、いや、あの、そのっ…ごめ…」

  「ダブル童もだよ。調子に乗って、挑発するから…」

  「「えっ、ちょ、俺たちもですかあ!?」」

  「当然だろ…?元々誰のせいで、こういう順が水撒きたくなるような状況になったと思ってるわけ…?」

  「立のせいじゃねえかな」

  「ダブル童。答えなさい?」

  こうなった魔王様に李俊の正統なツッコミは通じない。

  李俊は何度目かの溜め息をついて、懐から取り出した栗羊羹を、ばくばく丸かじりしだした。

  「威、猛、順」

  「「「ハ、ハイッ!!」」」

  「お前ら、ここ綺麗に片付け終わるまで、別行動(にっこり)」

  「「「えええええ!!??」」」

  「何か文句あるの?」

  「「「………ナンデモアリマセン」」」

  「さ〜、俊。先行こっか?」

  すっかり三人を黙らせた恐怖の大王が、くるりと李俊の方を振り返って、さわやかな満面の笑みを浮かべる。

  「え、お前、順たちは?」

  「掃除が終わってから、後で追いかけてくればいいじゃん」

  「「えっ!?ちょ、何ソレ!?」」

  「てか、元はといえば元凶は立じゃねーか!!なのに、何で俺たち差し置いてお前が…」

  「何か言った?」

  「「「……ゴメンナサイ。」」」

  (やっぱ魔王だ、こいつ…)

  魔王李立は3人組を力技でねじ伏せ、見事賞品(李俊)をGETした。



  「ん〜〜、いい風吹いてんねえ〜」

  双子と張順を放置しての、二人だけの川くだり。
  
  船頭を生業とする李俊の操船術は高度で、小船は安定していて揺れが少なく、
  陸の上にいるのと変わらないような錯覚さえもたらしている。


  「なあ〜、俊」

  「おう?」

  「久しぶりだねえ。俺ら二人っきりでのんびりするのも」

  「――…」

  そんなことねえだろ、と言いかけて、李俊が口をつぐむ。

  李俊も含めた八人の好漢。

  彼らが、現在、この揚子江沿いの広い地域――掲陽を、手分けして守っている。

  その中でも、李俊と李立は同じ『掲陽嶺』を共に守っている身なので、毎日のように顔を合わせてはいる。

  しかし、童家の双子やら、張順やらその他諸々が、いつも彼に引っ付いているため、
  改めて「二人きり」という状況は、本当に珍しかったのだ。

  「…だな」

  「いっつもダブル童のどっちかはひっついてやがるし、たまに横とかと連絡取ったら、そっちがべったりじゃん?」

  張順と仲がいいんだか悪いんだか、の実の兄の名前を出して、李立がくっくっく、と喉を鳴らして笑う。


  李立は、一言で言えば『したたか』な奴だ。

  普段は人のいい酒場のお兄さん(おじさん?)を装っているが、実際は、
  『催命判官』――地獄の書記官などという綽名を持った、元盗賊の札付きの悪党だ。

  その名の由来は、彼が非常に薬術に長けていることからきている。

  秒単位で効果を調節出来るような毒薬・麻痺薬・睡眠薬なんでもござれの薬のエキスパートで、
  応急手当の腕もそこそこあるという、頼れる奴である。

  ただ、時々その薬術をろくでもないことに使う傾向があり、李俊の監視の目をかいくぐっては、
  来店者に薬を盛って、身包みを剥いだり殺したりする悪癖があった。


 (……そりゃ…分かってるけどよ。俺が甘いのなんて…)

  李俊が一人ごちる。

  自分が甘いから、自分たちの中で最も年長の李立が、多少汚い手を使ってでも、その尻拭いをする覚悟でいるのだと。

  何度注意しても、彼がその悪癖を決して収めようとしないのは、暗に自分の甘さのせいなのだと。

  李俊は、『理解』はしていた。『了解』はできなかったけれど。


  (納得なんて、できねえよ)

  そういう汚い部分ばかりを仲間に押し付けるのは、李俊は嫌だった。

  自分こそが、『掲陽の妖』の異名を持つ自分こそが、そういう部分を背負うべきではないのだろうか。

  いつも皆に訴えてはいるけども、誰もろくに耳を貸してくれない。

  『神輿はきれいじゃなくっちゃね』

  この一言のもとに。


  「しゅーんちゃん。何考えてんの?」

  「え?あ、いや…」

  「失礼じゃない?俺と二人っきりのときに、自分の世界に入っちゃうのってさあ…」

  李立が薄めの唇を尖らせる。

  「あー…悪い悪い。船の上って、色々考えちまうんだよ。操船中って、無我の境地になっちまって…」

  「あー、そう。本当は、俺と二人っきりは嫌なんじゃないの?」

  「ばっ!んなわけねーだろ!!」

  「ですよね〜。ほら、俊ちゃん、ごはんですよ〜」

  「………」


  憮然とした顔で、差し出された袋を受け取って、中を開く。

  中にはあんまんが6つ入った蒸し籠が6つ。

  「俺、二つでいいからね。後は全部あげちゃう」

  「やりい!さんきゅ、立!」

  李俊は細い身体から想像もつかないほどよく食べる。

  しかも甘いものばかりを、だ。

  嬉々として早速一つ目のあんまんにかぶりつく李俊を、李立は暖かい目で見守っていた。


  「……ところでさ」

  「うん?」

  「今日の順の夢って何だったん?そんなに怖いものじゃなさそうだったけど…」

  それが不吉な夢だったなら、李俊や張順の寝起きの顔に翳りがでるはずだ。

  そう思っての、李立の質問だった。


  「ああ…。…うん、別に、今日のはヤバそうなもんじゃなかったな。大柄の道士と、仙人みたいな人が出てた」

  李俊は、『他人と精神的・肉体的に繋がれる』能力の持ち主だ。

  その能力を使って、張順の見る悪夢を自分の脳にも見させて、共有する。

  これが、幼い頃からの習慣だった。


  独りではないのだと。

  異様な存在は、張順一人ではないのだと。

  悪夢の通りに不幸が起こっても、それを共有して、分かち合ってくれる人が、こんなに近くにいるのだと。

  その存在が、幼かった張順にとって、どれほど大きかったことか。

  それは、現在の李俊にべったりの彼の様子を見れば、一目瞭然だった。


  「道士と仙人?」

  「そ。道士が、何かの使命の元に旅立つっつー。あーっと…うんじょー県?とか言ったかな」

  「ふーん……」

  李立が考え込む。

  「運城県てったら、ここからかなり遠いけど…。近いうち、何か起こるのかもね」

  「まあ、遠いんならいんじゃね?掲陽の皆に何も起こらなければ・さ」

  李俊が四つ目のあんまんを頬張りながら言う。

  李立が(李俊にとって)絶妙のタイミングで、水筒からお茶をついで、李俊に差し出した。


  「…ん?」

  「俊?どうかした?」

  川の流れにちょっとした違和感を感じて、李俊が水面に集中する。

  「……まだ結構遠いけど。誰か、猛スピードで船漕いでこっち来る奴がいるな」

  「あ〜、三バカ、掃除終わったのかあ。ちぇ、折角俊ちゃん独り占めできたとこだったのに…」

  李立がつまらなそうに溜め息をつく。

  「ちゃんと片付けしたんだろうな〜?追いつきたいあまりにテキトーだったら、またお仕置きしてやんないとねえ?」

  「お仕置きって…。お前、またこの前みたいに、毒薬ロシアンルーレットやらせる気?」

  S属性李立の提案するお仕置きは、大抵命に関わる。

  「解毒薬は用意してるじゃん」

  「優しさに繋がんねーよ」

  李俊はまた大きく溜め息をついた。



   ちゃぷん。ちゃぷん。

  揚子江は今日も穏やかで。

   こんな日がいつまでも、永遠に続くかのように思えた。

  勿論、それは錯覚だって、ちゃんと理解してはいたけど。


  「…立う」

  「うん?」

  「いい風だな」

  「……そうさねえ」

  李立がくすりと笑うから、李俊も優しく微笑んで返した。

  「いつまでも、こうやって、皆と楽しく暮らせますように…」

  ささやかなその願いを掻き消すかのように、急に強い風が吹いた。



          FIN.    NEXT…第1話 『生辰綱事件』