こんな夢を見た。
    その夢の中で、俺たちは、『楊志』という名の一人の男だった。



 『水滸伝』 第1話 裏・生辰綱事件 其壱


  「う〜……」

  『彼』がいない日は、眠れない。

  それは、張順にとって、いつものことだったけれど。

  今日くらいは、いつもと違う日にしたかったのに、やっぱり身体が眠るのを拒否してしまっている。


  しょぼしょぼする目をこすって、重たい頭を枕から持ち上げて。

  張順は眠気を振り払うために、久々に会った実兄の元へ足を運ぶことにした。


  「あ〜にき。ちょいといい?」

  「ああ?…待ってろよ、今仕上げんとこなんだからさ」

  お得意の漁師風炊き込みご飯の出来を確認するため、一つまみ口に放り込む後姿。

  長年、毎日のように見ていたはずの、その大きな背中。

  それが、大人になって互いに会う機会の減った最近では、懐かしいものだと感じる自分がいて…。

  張順は、居心地の悪さを感じて、兄から目線を外した。


  漁師だった張兄弟の父は、早くに嵐に飲まれて亡くなった。

  最愛の亭主を亡くし、心を病んで何もしなくなった母。

  幼い頃から、得体の知れない『能力』に苛まれ、部屋から一歩も出られなくなった自分。

  それを何も言わずに支えてくれていたのが、この実兄――張横だった。

  まあ、勿論、兄には兄なりの葛藤がちゃんとあったわけなのだが。

  兄は兄で、弟に弱みを見せる気はさらさらなかったし、弟は弟で、他人のことを考えているような余地も、
  この距離感を崩すような気もさらさらなかった。

  それでもまあまあ仲良くやってこれたのは、やっぱりなんだかんだ兄弟だからかな、と張順はひとりごちる。


  幼少時から、自分と母親を実質一人で養ってきた兄の後姿。

  いつ見ても、それはとても大きく、頼りがいのあるもので。

  そして、少しだけ。ほんの少しだけだけれど、憎らしいものだったりもした。


  別に、兄が嫌いなわけではない。決してない。

  でも、張順は、自分に持っていないものを持っているこの兄に対して、コンプレックスを持っていた。

  「…ん、こんなもんだな。順、お前も少し食うか?」

  「何、余計な分、あんの?」

  「握り飯一個分くらい、俊も文句言わないって」

  「じゃあ、もらうよ」


  はいはい、と、兄が慣れた手つきで握り飯を握って、張順の掌に乗せてくる。

  昔から、大飯食らいの『彼』のやってくる日には、こうして兄がなにかしらもてなしの用意をしていて。

  自分はといえば、やっぱり『能力』を恐れて縮こまって、結局何も出来ずにいて。

  ただただ兄が用意してくれたもてなしの席に座るだけで。


  (だからこそ…今日くらい、いつもと違う顔で迎えたかったのに…)

  たまには、一人でもちゃんと睡眠をとって、すっきりとした表情で。

  『彼』がいなくてもきちんと眠れるほど自分は強くなったのだと、言ってみたくて。


  きっと『彼』は驚いてくれるから。

  そして、喜んでくれるから、その表情が見たくて。

  そのために、数時間前から床に入って唸っているわけなのだが…。

  どうやら今日もいつもと同じ、眠れぬ夜がやってきそうだった。


  「さあて、そろそろあいつらが来る頃だよな。順、どうする?とりあえず、俺は迎えに行くけど?」

  指に付いた米粒を舐め取りながら、兄が言う。

  それを聞いた張順は、

  「お、オレが迎えに行くっ!兄貴はせいぜいもてなしの準備でもしときなよ!」

  すかさず叫んだ。


  …また、やってしまった、と。

  内心、冷や汗をかく。

  反抗期の子供じゃあるまいし、自分でもどうしてこういう言い方しかできないのだろうとは思うのだが…。

  どうにも、この兄に対して、つい突っ張ってしまう癖が直らない。


  対して、張横は『いつものことだ』とでも言うように、特に気分を害した様子も見せなかった。

  「…あっそ。じゃ、茶でも淹れて待ってるから。寄り道ひとつでもしてきたら……まあ、分かってるよな?」

  にこりと、さわやかに笑ってよこす。


  だが。張順は、額に汗を浮かべて、ごくりとつばを飲み込む。

  …兄の目が、笑っていない。

  完全に、相手が実の弟だろうが何だろうが、命を取るつもりでかかっている。


  酒場をやっている某魔王の友人といい、『彼』の周りには、どうにもこの手の一癖も二癖もある奴らが集まってきて困る。

  怒らせるとろくな目にあわないのは、二十数年付き合ってきた自分が、いちばんよく知っているから。

  張順は慌てて反論を試みる。


  「…しっ、し、しねーしっ!行ってくるよ!!」

  「おう。せいぜい気イつけろよ〜」

  一体自分を何歳だと思ってるんだよ、と言い返したくなるのだが…。

  まあ、いつも兄はこの調子なのだから。

  あまり気にするな、と自分に言い聞かせて、張順は夜道を船着場に向かって走る。




  今日は、隔週に一度の、『彼』がやってくる日。

  月に一度の八人での集まり以外で、敬愛する『彼』に会える大切な日。

  今日という日を指折り数えて毎日を過ごしてきた張順。

  息が切れようが、かまわない。

  一秒でも早く、『彼』がやってくる船着場に足を運んで、 『彼』の姿を視界に入れたい。

  その思いが、張順を急かす。


  「はあ、はあ…。……え〜っと、俊兄イの船はっと…」

  ドクドクと、必死に血液を運ぶ心臓を押さえて。

  顔を上げれば、丁度見慣れた船の影が。 

  張順が大きく両手を振れば、船のへさきに腰を下ろした、包帯を目に巻いた男――李俊が、大きく手を振って応えてくれた。


  「おう、順〜!!何だよ、迎えに来てくれたのかあ〜!?」

  「うんっ!!俊兄イ、いらっしゃい〜っ!!兄貴が炊き込みご飯作って待ってるよ〜!!」

  「マジで!?」


  ふわり、と。

  まだ、船は岸までかなりの距離を保っていたのだけれど。

  一瞬にして、袖口から杭めがけてロープを投げ、その上を滑り、李俊は音も立てずに張順の元に降り立った。

  相変わらずの体重を感じさせない身軽な動きに、つい張順も感心してしまう。


  「ちょっ、しゅ、俊〜〜!?」

  「先行くなっつーのお〜〜!ったく!」

  船上に置き去りにされた童兄弟が、必死に舟をこいで距離を縮めてくる。

  彼らを待っている間に、李俊は張順の顔を覗き込むようにして話しかけてくる。


  「よ、順。どうだ、身体の方は?」

  彼に隈の張り付いた顔を見られるのが恥ずかしくて、張順は思わずあさっての方向を向いてしまう。

  「べ、べ、別にっ、いつもどおりだよ。で、でもね、今日は」

  「しゅ〜んちゃん。いらっしゃい!飯作って待ってたんだぞ〜」

  これ以上ないタイミングで、背後から、さっき別れたばかりの兄の声がした。


  「あっ、ああ兄貴っ!!家で待ってんじゃねえのかよお!?」

  「はア?何のこと?ていうか〜、そんなことよか、久しぶり、俊!!ちゃんとメシ食わせてもらってる?」

  目までしっかりにこにこ笑いの張横が、李俊の頭をぐりぐり撫でる。


  (く、くう〜〜。折角の、俊兄イと二人っきりの時間が…ッ)

  勿論、それを承知の上で割り込んできてるのだから、この兄はたちが悪い。

  というか、どこかの魔王の影響が如実だ。


  恨みを込めた目で、李俊に熱烈なハグをかましている兄を見つめれば、

  『欲しかったら腕ずくで取り返してみれば〜?』という不敵な笑みが返ってきた。

  …この近辺で、自分に敵うほどの腕前を持つ者は殆どいないと、分かっているからこそのこの余裕。


  血のつながった、実の兄弟なのに。

  ただ自分の能力に怯えて引きこもっていただけの自分と、家族や李俊を守るため、毎日身体を鍛え上げた兄。

  その戦闘力の差は歴然としたもので。張順は、悔しさで唇を噛みしめる。


  「横、それくらいにしとけって。順がむくれてっぞ」

  「むくれるようにしてんのさ〜。お〜い、ダブル童〜、早く来いって〜!」

  「む、無茶言ってんじゃねえ〜〜!」

  「ていうか、俊兄イに触んな!べたべたすんなア!!」

  遠くで必死に舟をこぐ童兄弟をあざ笑うように、張横が李俊を抱きしめる腕に力を込める。


  「お、横っ、苦しいって!」

  「兄貴イイ!!いいかげんにしろオ!俊兄イを放せええ!!」

  「あっはっはっは。止めたかったら止めてみなさ〜い?」

  「こんちくしょおおお!!」

  必死で張横の腕に取り付いて、李俊から引っぺがそうとする張順。

  顔が真っ赤になるほど力を込めて。

  結局敵わないので、その腕にがぶりと歯を立てれば、兄のおしおき鉄拳が振ってきた。

  その光景を見て、李俊はつい笑い声をもらす。


  いつもこんな調子だから、この兄弟は飽きない。

  昔から、色々なものと一緒に戦ってきた、戦友にして幼馴染。

  そんな張兄弟と、大人になって、住み分けを決めてから、時々しか会えなくなっていたけれど。

  やはり、彼らといるのは、ただただ楽しかった。



  あの頃は、忌み嫌われていた。

  『異形の存在』だから。『みっともない』から。『人間じゃない』から。

  狭い家の中にも広い街の中のどこにも、自分の居場所なんてなかった。

  でも、それも仕方ないと思っていた。

  李俊は、そう思っていた。


  それが、なんとか仲間と力をつけて、いつしか掲陽中に名前が広がるようになったとき。

  掲陽の民は、その広い地域を李俊たちの手に預けることを望んだ。

  この掲陽の支配者なんて、名前だけの、あってないようなものだったから。

  民を見守る気などさらさらないその役人より、李俊を含めた八人の好漢の力を求めた。


  その声に応えて、掲陽の各地に彼らが分かれ住んで、トラブルなどの処理をするようになってから、早3年。

  もうそんなに経つんだな、と、李俊が目の包帯を解きながらひとりごちる。


  まるで、満月をそのままはめ込んだようだ、と。

  バケモノの証だと言われ続けた、大きなぎらぎらと金色に光る瞳が現れる。

  それを隠して盲人のふりをして生きるのにも、もうすっかり慣れた。

  でも、こうして、心を許せる仲間との間で、それを取る瞬間。

  李俊はいつも、この上ない開放感を味わうのだ。


  「ほら、俊。とれたての桃で作ったジュースだぞ〜。あと、メシもね」

  「さんきゅ、横!!」

  張横の持ってきた、たらい一杯の炊き込みご飯をしゃもじで豪快にかっこみながら、李俊が湯のみ(特注サイズ)を受け取る。

  「「俊兄イ、喉詰まらせないでよ?」」

  童家の双子が、左右からその世話を焼く。


  兄が次々と仕込んだおかずを机に並べている間、張順はただ座って、湯飲みのジュースをちびちび舐めていた。

  「…兄貴ィ。何か手伝おっか?」

  「ああ?いいっていいって、俺一人の方が早いもん。お前はこれでも食ってな」

  自分の前に置かれた小皿の煮た肉を、張順は面白くなさそうに箸でつつく。


  「順。行儀悪いぞ」

  「へいへい。ゴメンナサイ、お兄ちゃん」

  「はい、態度悪いぞ〜」

  ごちんと、本日二度目のおしおき拳骨が降ってきた。

  痛みと悔しさの涙が、張順の眼球を潤す。


  まあ、単に痛くて涙目なのだと、李俊が思ってくれたら幸いだ。

  張順にだって、プライドってものはある。

  大好きな李俊の前では、絶対泣くもんかってくらいのプライドは。


  「…で、順。前会った時から、少しは寝られたのか?」

  毎度おなじみの内容を、李俊が問う。

  それに毎度おなじみの答えを返すのは、心苦しかったけれど。

  李俊に対して嘘をつきたくはなかったから、張順は正直に答えた。


  「…ううん。ごめんよ、俊兄イ…」

  「んだよ、そんなのしょうがねーじゃん。謝ることねえって、順!」

  「そうそう。そんな変な能力持ってんだもん、そりゃ不眠症にだってなるって。なあ、俊兄イ?」

  童猛、童威がフォローを入れれば、李俊が真顔で深く頷く。


  『変な能力』。

  夢という形で、近い未来を予知する能力。

  それを自分が持っていると知った時の絶望を、今でも張順は覚えている。

  『昨日はあの人が死んだ』。『今日は、こちらの人』。『次の日には、そちらの人が』。

  夢で見た通りに人が死んでいく。その事実に、幼い張順の心は耐え切れなかった。


  何故、自分なのか。

  兄も母もごく普通の人間なのに、何故、自分ばかりがこんな能力を持っているのか。

  幼くして『掲陽の妖』と呼ばれ、迫害されていた少年――李俊に出会うまで、ずっとそればかりを考えていた。

  それしか考えられなかった。


  「何度も言わせんなよ。変な能力の持ち主は、お前だけじゃねえんだ。現に、こんなに近くにいるじゃねえか。
  お前だけがおかしいなんて、そんなことはありえねえよ」


  いつも、張順が迷ったとき、李俊がくれるこの言葉。

  この言葉があるから、張順は今、ここにいられる。

  こんなにも楽しく、仲間と笑っていられる。


  「…うん。あんがと、俊兄イ。お礼に、絶対俺が守るからね!」

  「あ、無理」

  「「無理無理無理」」

  「ちょ、兄貴!!ダブル童オオ!!」

  むきになって三人に食ってかかり、軽く兄に投げられてしまう張順。

  いつもどおりの、この風景。


  自分の殻に閉じこもっていた少年時代。

  未来の自分が、こんなにも仲間たちと楽しく笑っていられるなんて、あの頃の張順には想像もできなかっただろう。

  だからこそ、だ。

  この未来をくれた彼を、守りたいと思うのは。

  彼と、彼が守りたいもの全てを守る力が欲しいと、切に願うのは。

  他の誰でもない、自分の力で、彼を支えたいと思うのは。



  もうすぐ、夜が来る。

  そして、今日も彼らは夢を見る。

  いずれ自分たちと深い関わりを持つことになるであろう、前世から運命の糸のつながる『仲間』たちの夢を。

  その夢の中で、二人は『楊志』という名の一人になっていた。


         FIN.    NEXT…第1話『生辰綱事件』・裏 其弐